中森明菜さんの曲『Rojo -Tierra-(赤い大地)』を考察-勇者を称える讃美歌

皆さま、こんにちは

今回も引き続き、中森明菜さんの記事となります。お人柄や想い(信念)を知る上で適切な歌を見つけましたので、ここでご紹介したいと思います。

それは、『Rojo -Tierra-』です。2010年に体調を崩されて活動を休止して以来、2014年のNHK紅白で復帰を果たされた際に歌われた曲となります。タイトルはスペイン語で、日本語に訳しますと『赤い大地』という意味になります。ちなみに、ファンクラブの名前『ALDEA(村)』もスペイン語なので、スペインという国に何か強い思い入れがあるのかもしれません。

私にとってこの時期は、オーストラリアから帰国した後、まもなく東日本大震災が起きて、哲学などを学びながら人生をいろいろ振り返っていた頃です。畑を借りて毎日鍬で耕していました。

明菜さんはデビュー当時、家族を助けるために『お金』目的で歌っていたそうですが、前回の記事の最後の方、鶴瓶師匠と明菜さんとのやり取りの中では、歌とは『希望』であり、ご本人は『太陽』のようになりたいとおっしゃっていました。少なくとも2014年時点では、後者が本心だと思います。

この『Rojo -Tierra-』という曲には、明菜さんにとって歌を歌う理由であり、意味でもあるメッセージがダイレクトに含まれています。

そして、歌詞を注意深く見ていきますと、なんと私が昔学んだニーチェ哲学『力への意志』や『永遠回帰』に通じるものを感じました。

本記事では、歌詞の意味を考えつつ、ニーチェとの親和性について考えてみたいと思います。前回の記事で、「哲学者の素質がある」と言った意味もご理解いただけると思います。

それでは始めます。

1.『Rojo -Tierra-(赤い大地)』は勇者を称える讃美歌

『Rojo -Tierra-(赤い大地)』は、中森明菜さんご自身も歌詞作りに携わっておられます。したがいまして、ご本人の生き方や信念がそこに詰まっていると考えます。

この歌を一言で表現しますと、『勇者を称える讃美歌』です。勇者とは文字通り、勇気を持った人の事です。ニーチェ流に言うと、『超人』と言い換えても良いかもしれません。ここで言う『超人』とは、フリードリヒ・ニーチェが著したツァラトゥストラをイメージしています。

参考までに、ツァラトゥストラがどういう人物で、どんな風に人生を生きたかについては、本記事の後半でご紹介いたします。

「すすんで攻める勇気だ。すすんで攻めるとき、われわれは喨々と鳴りひびく音楽を聞くのだ――(中略)――かかることばには、喨々と鳴りひびく音楽がある。耳のある者は、聞くがよい」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より

2.中森明菜さんの歌『Rojo -Tierra-(赤い大地)』を考察

ここでは、2014年のNHK紅白で歌った時の映像と、『Rojo -Tierra-(赤い大地)』の歌詞を照らし合わせながら考察してみたいと思います。

なぜ歌詞だけでなく映像も参考にするかと言いますと、NHK紅白ではニューヨークからの中継放送で歌われているのですが、歌の合間に挿入されている映像(太陽・月・アフリカの大地・獅子・自由の女神など)は、中森明菜さんご自身が選んだものだそうで、そこには何か伝えたいメッセージが含まれていると考えたからです。

2-1.第一節目の歌詞

Ms. Una Tierra もっとそばに来て この腕に抱かせて
生きているぬくもりを 肌で感じる
熱い予感 終わりじゃない
私たちは ひとりじゃない

まず、最初の一節目についてですが、普通に読み取りますと、そばに来てほしい存在、ぬくもりを肌で感じる存在とは、人間の事を指していると考えられます。実際、挿入画像には人も登場するので、もちろんそういう意味もあるでしょう。しかし、赤い太陽や大地のシーンが何度か登場するところを考えますと、それ以上の意味がこの歌には含まれていると私は解釈しました。

タイトル名の『Rojo -Tierra-』とは、燦燦と輝く太陽と、それに照らされる赤い大地を意味し、太陽とは例えば明菜さんを指し、赤い大地とは明菜さんの歌に感銘を受けた我々ファン、という見方もできます。

この一節を最初に見た時、私はツァラトゥストラの冒頭部分、「偉大なる天体よ!もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたははたして幸福と言えるだろうか!――(中略)――では、わたしを祝福してください。――(中略)――満ち溢れようとするこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように!」と太陽に語り掛けているシーンを思い出しました。自分の蓄えた知恵を分配・贈り与えるために、彼がふたたび人と共に生きよう、下山しようと誓う場面です。

地平線から昇る太陽
輝く太陽

このツァラトゥストラの文章に倣うと、歌を聴くファンがいればこそ明菜さんは幸福であり、感銘を受けたファンが勇気を持って力強く生きていくことを望んでいることになります。

それと、ツァラトゥストラが下山後、民衆に対して「超人(勇者)は大地の意義なのだ――(中略)――大地に忠実であれ」と説きます。

挿入された画像には、アフリカの大地も何度か登場するので、歌とツァラトゥストラの物語との間には、哲学的な親和性を感じました。

サバンナ-赤い大地
サバンナ:太陽に照らされる赤い大地

太陽に向かって「自分はこのままでは終わらない!」という再起の強い決意を、ここで表現しているのではないでしょうか?

補足として、この部分の内容は、日本文化の天道思想にも通じる気がします。今の子供は分かりませんけれど、私が子供の頃には、祖母からよく「お天道様が見ているから、悪い事をしちゃ駄目だよ」と教え聞かされたものです。

そして、二節目に入る前の前奏パートでは、鷲や大都会の画像が出てきます。鷲はツァラトゥストラの物語では、力や勇気の象徴として登場します。そして夜の大都会の画像は、大地(自然)から遠いところに私たちはいる、暗い世界で生きている、という隠喩でしょうか?自分の解釈が画像と一致しているかどうかは分かりませんが、少なくとも解釈の方向性は合っていると思います。

注:
ここでご紹介しているものは、全て私が用意したイメージ画像です。

2-2.第二節目の歌詞

それはまるで大地を溶かしてしまいそうな炎 輝くほど
強くおもえる愛しい人(もの)たち 永久の希望を抱いて

この二節目の歌詞は、一節目の勇者を説明していると考えらえます。ここでの勇者とは、燃えたぎる熱い心と信念を持ち、自分の人生の選択を一切後悔しない人たちです。明菜さんはそういう人たちを愛している、と言っているのでしょう。ツァラトゥストラの『永遠回帰』思想にも通じる表現です。

2-3.第三節目の歌詞

動き出す大地とともに…私たちは出逢い
どんな群れに紛れても決して見失わない

三節目の歌詞では、確固たる信念を持った勇者たちが出会うことを意味しています。何か運命が動き出す、ストーリーの始まりを暗示していますね。ツァラトゥストラの物語でも、自らの道づれを探すために旅へ出て、そこで出会いと別れを繰り返します。

2-4.第四節目の歌詞

Ms. Una Tierra どうぞここへ来て 悲しみごとあずけて
傷ついた羽根さえも 時にまぼろし
Ms. Una Tierra 今 目を閉じて 鼓動に身をゆだねて
やがて来る夜の果て 耳を澄ませて
熱い予感 終わりじゃない
あなたはもう ひとりじゃない

ここの部分の歌詞は、ちょっと解釈が難しいです。全体としては、大地と共に生きなさい、そして、人生辛い事があって心が傷ついても時が癒してくれる、という事を伝えたいのかなと思います。

ただ、「やがて来る夜の果て 耳を澄ませて」の部分でちょっと混乱しました。一つの解釈としては、『夜』を『孤独』や『死の静寂』とすることです。でも、それだと次の歌詞に繋がりませんので多分これは間違いです。

そして、もう一つの解釈の糸口は、『最も静かな時(ツァラトゥストラが恐怖した女主人)』が、彼に対して「夜が最も静まるとき、露は草の上におりるのですよ」と優しく諭した部分にあります。

つまり、やがて来る夜の果てに耳を澄ます理由は、「草の上に静かに露がおりる瞬間をちゃんと認識しなさい」と言っているのではないでしょうか?

もう少しかみ砕いて説明すると、ここで言う『草の上に露がおりる瞬間』とは、『自らの強い想いが、志ある勇者たちに伝わる瞬間』を示唆しているのではないでしょうか?「歌を通して気づいてほしい」、という明菜さんの密かな願いが、ここには含まれている気がします。

私の考えすぎかもしれませんが、いずれにしても、どういう想いと経緯でこの歌を作詞・作曲されたのかが知りたくなりました。

2-5.第五節目の歌詞

それはまるで未来を祝福してるような光 あたたかくて

これは一節目と同じく、太陽から降り注ぐ暖かい光(祝福)を意味していると思います。ここでの太陽とは、自然からの恵み、または勇者のことをおそらく暗示しています。後者についてですが、勇者は太陽のように明るく人々を照らし、未来を祝福する力を持っているからです。多くの人に感動を与える明菜さんもその一人と考えられます。

2-6.第六節目の歌詞

つらい過去から逃げずに…夜明けをつかまえて
優しい目をした人よ 光は降り注ぐから

この節は分かりやすいですね。今までの辛い過去を受け止め、希望(夜明け)を見つけなさい。明るい未来は必ず来るから、忍耐強く待ちなさい、という事を伝えたいのかなと思います。

今はまだ夜でも、待てば再び陽は昇ってきます。それは自然の摂理であり、円環の理です。人もまた同じという事でしょう。

ツァラトゥストラの物語ですと、『救済』という章の内容に似ていますね。一つ違いを言えば、彼の場合、過去の辛い経験でさえ「私がそのように欲した」または「私がそうあることを意志した」と自己肯定にまで昇華してしまうことです。ただし、過去絶望した事のある人なら(他に選択肢がないので)いざ知らず、これは万人向けの教えとは思えないので、あくまで参考までにご紹介します。

2-7.第七節目の歌詞

Ms. Una Tierra もっとそばに来て この腕に抱かせて
生きているぬくもりを 肌が感じる
Ms. Una Tierra 胸に打ち寄せる 涙を泳ぎ切って
雨上がり虹の果て 恵む聖地へ
赤く燃える この心で
どんなことも 受け止めてく

ここの歌詞は、六節目までの内容をまとめているように見えます。「雨上がり虹の果て 恵む聖地へ」という部分については、苦難を越えた先に希望が見え、満たされた境地に到達できる、という事を意味していると思います。

ここの間奏パートで出てくる画像は、真っ赤な太陽、獅子、虎、自由の女神、雲がかかっている月、多数のインパラの疾走、象の群れ、人、信号です。

真っ赤な太陽は、無限に降り注ぐ祝福や、個人の熱い魂をおそらく表現しています。獅子や虎は、強さ・勇気を象徴しているものと思います。自由の女神は文字通り自由精神を表しています。雲がかかっている月は、太陽から反射されて光る柔らかな月光でさえも暗雲が遮り、まだまだ明るい夜明けには遠いという意味でしょうか。多数のインパラが疾走するシーンや象の群れが歩いているシーンは、大地(自然)との共生をイメージしているのでしょう。人と信号のシーンについては、人間は社会的ルールや既成概念の中で生きている、不自由な存在というメッセージが含まれているのかもしれません。

2-8.第八節目の歌詞

Ms. Una Tierra どうぞここへ来て 悲しみごとあずけて
傷ついた羽根さえも 時のまぼろし
Ms. Una Tierra 今 目を閉じて 鼓動に身をゆだねて
やがて来る夜の果て 耳を澄ませて
熱い予感 終わりじゃない
あなたはもう ひとりじゃない

八節目も今までの内容の繰り返しとなりますが、多分意味合いは最初と最後で異なると思います。ツァラトゥストラのお話でも、冒頭で太陽に語り掛けましたが、最後に再び太陽に語り掛けて物語が終わるからです。

散々苦難の人生を生きてなお、己の信念は変わらず最後まで貫くという、力強くて爽やかな覚悟がそこから私は見て取りました。

紅白で放送された映像では、ここで大都会からのぞく太陽、獅子、疾走しているピューマ、大都会、咲いていく花、俯いている人、大きくて真っ赤な太陽、サバンナ、太陽に照らされる都市の画像が次々と映し出されていました。

例えば、ビル越しに見える太陽は、私たち人間は太陽からの無限の祝福を人工物によって妨げている、というメッセージを感じます。

ビルによって妨げられた太陽
ビルによって妨げられた太陽

獅子や疾走している動物は、自然の中で全力に生きている動物たちを表現しています。一方で、電車のシーンは、人工物の中で全力に生きている人間たちを表しています。

咲いていく花とうつむいている人の映像は、少しずつ人は開花しているが、まだ暗闇の中に私たちはいる、ということを暗に意味しているのではないでしょうか?

そして最後に締めとして、再び太陽・サバンナ・都会の映像を出し、その上で大都市を太陽で照らす映像から、勇気を持って力強く、自然と人間世界の狭間で明るい未来を志向しよう、という明菜さんからのメッセージじゃないかと思いました。

太陽によって照らされた都会と草原
太陽によって照らされた都市と草原

「わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。(中略)くりかえし大地と人間の大いなる正午について語るために。くりかえし人間に超人を告知するために」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より

3.ツァラトゥストラの人生とは?

次に、ツァラトゥストラとはそもそもどういう人なのか、彼の物語をここで簡潔にご紹介します。段落2の『Rojo -Tierra-』の歌詞と比べながら読んでいただけますと、何かしら類似性が見えてくるんじゃないかと思います。

3-1.第一部『出会い』

ツァラトゥストラは30歳の時、(理由は分かりませんが)人生の希望を失い、故郷を捨てて山にこもります。そこで孤独を楽しんで長年暮らしていたのですが、40歳の時に、山で暮らしながら培ってきた知恵を人々と共有したいと考えるようになり、太陽を前にして山を下りる宣言をします。

下山後、民衆の前で超人とは何者かを諭しはじめますが、皆彼を変人と馬鹿にするだけで、真面目に聞こうとしません。そんな様子を見て、彼と民衆の間には大きな隔たりがあり、理解し合えない事を悟ります。まもなく、彼は人生において道づれが必要であり、その道づれに対して語るべき、という結論に至ります。超人に至る段階を示し、彼ら(創造する者・刈り入れる者・祝う者)に虹を示すことをその時誓います。

ここから、ツァラトゥストラの生涯をかけた長い旅が始まります。

道中、彼はいろいろな人々と出会い、別れを繰り返します。そこで得られた知恵は、自分に付いてくる道づれと共有していきます。(ここで言う道づれとは、ツァラトゥストラの友人や弟子だけでなく、私たち読者も含んでいると思います)

時が経過し、人生の十字路に来たとき、ツァラトゥストラは弟子たちに向かって、「ここからは(あなた方と別れ)ひとりで行きたい」と言います。それは彼自身のためであり、同時に弟子たちのためでもあったからです。

最後に、弟子たちへ別れの言葉を贈ります。「あなたがたの徳によって、大地に忠実でありなさい、飛び去ってしまった徳を大地に連れ戻しなさい」と諭しました。

「大いなる正午とは、夕べに向かう自分の道を、自分の最高の希望として祝い称えるときである。それは新しい朝に向かう道でもあるからだ。――(中略)――そのときは、かなたへ超えてゆく者として、自分自身を祝福するだろう。そのとき、かれの認識の太陽は、かれの真上に、天空の中心にかかっているだろう」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』より

3-2.第二部『力への意志~救済』

彼はふたたび山に戻り、孤独な生活を始めます。歳月が流れたある朝、夢の中で鏡を持った幼な子に出会います。その鏡をのぞき込むと、自分の顔ではなくて代わりに奇怪な顔が映っていました。自分の弟子たちに危険が迫っていることを悟り、ツァラトゥストラは再び山を下りる決心をします。

そして、第一部と同じように道づれを見つけ、道中で様々な経験をし、知恵を共有します。

ある時、ツァラトゥストラは非常に恐ろしい体験をします。『最も静かな時』が彼に語り掛けたのです。教えを受けている彼の道づれ(友人や弟子)は成長し、成熟しつつあるが、肝心のツァラトゥストラ自身が十分に熟していないと、優しく忠告します。

ツァラトゥストラは恐怖の叫び声をあげて、子供のように泣きながら『最も静かな時』に対して許しを乞います。獅子の力を持たず、純粋な幼な子にもなれないと考えていた彼は、自ら超人になる資格はないとして、他に相応しい者をずっと待っていたからです。

本当は力があるのに、己の運命を避けようとする彼を、『最も静かな時』は諭し、「もっと熟れるために自身の孤独に戻りなさい」と絶対的な命令を下します。そうして、せっかく彼を慕い求めて集まってきた友人や弟子たちに別れを告げ、ツァラトゥストラは再び一人に戻らなければならなくなりました。その過酷な運命に対し、彼は声を上げて泣きます。

3-3.第三部『祝福する者、ツァラトゥストラ』

晩年に入りますと、ツァラトゥストラは山から下りて、『超人』から『永劫回帰』の思想を説きはじめます。なぜならば、『超人』は人生におけるミッションであり、ゴールではないからです。勇気を持って深淵と向き合い、打ち克つために志すものです。

ある時、『祝福する者』として、ツァラトゥストラは己の深淵を呼び覚まし、その思想と対峙しようとします。しかし、彼は一瞬で倒され、屍のように七日間寝込むことになりました。なぜそうなったかと言えば、かれが深淵に触れた時、この世が永遠に回帰しているという真理に対し、同時にそれは『人間に対しての大いなる嫌悪』も永遠に繰り返しやってくるという現実を知って苦しんだからです。衰弱していた彼は、従者である鷲と蛇の力を借りて快癒します。ここで、彼の運命が『永劫回帰』の教師であることを悟りました。

3-4.第四部『試練~永劫回帰』

長い月日が経ち、人々に自身の哲学を説いてきたツァラトゥストラも、ついに白髪の老人となりました。彼は、自らの足で自分のところまで登ってくる「ましな人間たち」を待望し、再び山に戻ります。

ある時、人間の叫び声を聞きます。最初ツァラトゥストラは、「今さら人間の苦悩には関係ない」と取り合いませんでしたが、その叫び声が自分に向けられたものだと知り、心が動揺します。そばにいた預言者が、「あなたを求めて叫んでいるのは、(あなたが待望していた)『ましな人間』なのだ!」と教えてくれます。そうして、ツァラトゥストラは『ましな人間』を探しに出かけます。

道中で出会ったのは、『二人の王』、『良心的な学究』、『魔術師』、『聖職者』、『最も醜い人間』、『山上の垂訓者』、『わたしの影』の8人です。ツァラトゥストラは自分の洞穴に彼らを招待し、晩餐を開きました。話をしている内に、彼らこそが『ましな人間』であり、自分の本当の道づれと思い始めるのですが、結局、太陽が昇っても覚醒しない彼らを見て、本当に求めていたのは彼らでは無かった事を悟ります。そして同時に、最後の自らの過ちである『同情』にずっと捉われていた事にも気付きます。

そうやってツァラトゥストラは再び一人となりましたが、でもその後ろ姿は寂しさなど微塵も感じられません。それどころか、暗い山から昇る朝日のように、今までにないほど力強く燃え輝いている所で物語は終わります。

暗い山から昇る朝日
暗い山から昇る朝日

「わたしの求めているのは、わたしの仕事だ!よし!獅子は来た。私の子どもたちは近くにいる。ツァラトゥストラは熟れた。わたしの時は来た。これは私の朝だ。わたしの昼がはじまろうとする。さあ、来い、来い、大いなる正午よ!」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より

4.まとめ

以上となります。いかがでしたでしょうか。

今回は、中森明菜さんが2015年に復帰するとき、2014年の紅白で歌われた曲『Rojo -Tierra-』と、その時の中継放送で使われた映像から考察してみました。作詞や挿入映像もご自身で担当されているという事で、深いメッセージ・覚悟がそこに込められていると思ったからです。

最初に歌を聞いた時に驚いたのが、私が学んだツァラトゥストラの哲学と非常によく似ている事でした。どのような意図で作詞されたのか、そして中継放送に映像を挿入されたのか、非常に興味があります。

ネットなどを見ていると、明菜さんの経験してきた悲劇に対して、深い同情で溢れています。私自身、悲しい経緯を知った時は胸が締め付けられる思いでしたし、今もその感情は消えていません。80年代の彼女の絶頂期を知ってしまえば尚更です。自分も感受性が鋭いため、気を付けないと憂鬱の海に溺れそうになります。

このような『同情心』に対し、ニーチェは「神さえも殺めてしまう」と警鐘を鳴らしています。人として、他者にある程度同情するのは当然だと思いますし、人によっては進んですべきです。しかし、それだけでは救われませんので、勇気で無気力・苦痛・同情などを克服し、自身も周りも希望を持ち、笑うことが大事です。

勇者たちと共に行動し、希望を胸に勝利を祝いたいと心から願います。この『Rojo -Tierra-(赤い大地)』という歌を通して、明菜さんも同じ想いを持っていると思いました。

最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。

「夜はきた。すべての愛する者の歌はいまようやく目覚める。――(中略)――愛したい、とはげしく求める念がわたしのなかにあって、それ自身が愛のことばとなる。わたしは光なのだ。夜であればいいのに!この身が光を放ち、光をめぐらしているということ、これがわたしの孤独なのだ」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』より

5.参考にした資料

ツァラトゥストラの人生や哲学についてご興味ある方は、下記のリンクからご購入いただけますと助かります。

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青 639-3)